日本に漢字が伝わったのは、古事記によれば、百済から渡来した和邇(王仁)が論語十巻、千字文一巻を応神天皇に献じたのが始まりだということになっている。そうとすれば、四世紀か五世紀の頃ということになるが、古事記のこの記述は現在では信頼できないとされている。というのも千字文が書かれたのは、六世紀のことだからである。
根据《古事记》的记载,从百济来日的和趰(王仁)向应神天皇献上《论语》十卷、《千字文》一卷,此即是汉字在日本传播的开端。如果是这样,那么时间就是在四世纪或五世纪左右。然而现在却认为,《古事记》的这段记载可信度并不高。因为《千字文》成书的年代是在六世纪。
ではもっと後の時代のことかといえば、そうではないらしい。その手がかりを、福岡県の志賀島から徳川時代に発見された有名な金印が与えてくれる。承知のようにこの金印には「漢倭奴国王」と刻まれている。この金印は漢代の官印のひとつであって、後漢の光武帝が紀元57年に漢倭奴国王に下賜したものだということが分っている。
那么,汉字的传入就是在更往后的时代吧,其实也未见如此。而德川时代出土于福冈县志贺岛的著名金印给我们提供了线索。众所周知,这颗金印上刻有“汉倭奴国王”字样,属于汉代的一种官印,我们也知道,它是东汉光武帝于公元57年赐给汉倭奴国王的物品。
漢倭奴国王が誰かについては諸説あって定まりがないが、当時日本列島に存在していた多くの王国の一つなのだろうというのが、有力な説である。漢書地理志には「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」とあり、大和朝廷が日本を統一する以前には、日本列島には多数の国があって、分立していたことを推測させる記述である。
关于汉倭奴国王是谁的问题,大家说法不一,不过可以确凿说,倭奴国应是当时日本列岛诸多王国中的一个。《汉书地理志》中写道,“夫乐浪海中有倭人,分为百余国”,从这段记录可推测出,在大和朝廷统一日本以前,日本列岛处在多国林立的分裂状态。
後漢の光武帝は、そうした国のひとつである倭奴国の国王に、この官印を下賜したわけであるが、この事実は、それを受け取った側に、漢字を読むことのできたものが存在したことを推測させる。つまり、大和朝廷が日本を統一する以前から、日本には漢字を理解するものがいたらしいのである。
这些国家中有一国叫“倭奴国”,东汉光武帝把官印赐给了倭奴国的国王。由该史实可知,在当时接受金印的地方,已经存在能够阅读汉字的人。也就是说,早在大和朝廷统一日本之前,日本就已经有能理解汉字的人了。
石川九楊という人の推測によれば、日本に最初に漢字が伝わったのは、紀元前200年くらいに遡るという。
石川九杨推测,汉字最早传入日本的时间可上溯到公元前200年左右。
日本語と漢語(漢字)の関係を取り上げるとき、古代日本語の確固とした体系の上に漢字が伝来し、話し言葉としての大和言葉に、書き言葉としての漢字の体系がかぶさったと理解するのが普通である。つまり漢字伝来以前にはすでに、話し言葉としての古代日本語が確立されていて、漢字はそれに書き言葉の手段、つまり文字を提供したと理解するわけである。
在谈论日语与汉语(汉字)之间的关系时,我们一般都认为,汉字是在古代日语形成一定体系之后才传入的,大和语言形成了口语,汉字体系在这个基础上发展为书面语,这即是说,在汉字传入之前,古代日语就已作为口头语言得到了确立,汉字为其提供了书面语的手段,也就是提供了文字。
筆者なども実はそう考えていた一人であるが、石川九楊はそんなに単純なものではないという。彼によれば日本に漢字が伝来したのは弥生時代の後半であるが、その頃の日本には、民族全体に共通するような言語はまだ成立していなかったのではないか。同じものでも、地域によっては違う名で呼んでいたのではないか。それが長い時間をかけて共通の言葉に練り上げられていく。石川は、その過程で漢字が決定的な影響を及ぼしたのではないかと考える。
实际上,笔者也持有上述观点,然而石川九杨则认为,事情并非那样单纯。在他看来,汉字传入日本是在弥生时代后期,在那个时代的日本,全民族的通用语言还没有形成。同一样事物在不同地区,往往有不同的称呼。经过了很长时间,众多不同语言才逐渐融合成共通的语言。石川认为,在这个过程中,汉字所带来的影响是决定性的。
漢字に接した最初の日本人は、それを中国人と同じように発音していたに違いない。だがそのうちに、漢字が持つ表意文字としての性格に着目し、ひとつひとつの漢字に日本風の呼び名を当てはめ始めた。たとえが「山」という字は中国読みでは「サン」であるが、日本人はそれに日本風の名前、「やま」をあてがった。
可以确定,最初接触汉字的日本人也在汉字读音上模仿中国人。在这个过程中,汉字所具有的表意文字的特点得到注目,于是人们开始为每一个汉字对应日本固有的读法。比如“山”这个字按汉语读作“サン”,而日本人则用日本固有的读法“やま”对应“山”。
こうしてさまざまな漢字に日本風の読み方をあてがう作業をおこなううちに、あてがうべき名前の標準化作用のようなものが行われたのではないか。
于是,各种各样的汉字都被配上日本固有的读音,很有可能在这个过程中,选定某一种标准读音的活动也随之进行起来了。
おそらく弥生時代には、山を言い表すことばは「やま」だけでなく、ほかにいくらもあったかもしれない。だが「やま」という名前が漢字の「山」の日本風の読み方を代表するようになると、そこに言葉の標準化が成立する。山に限らず多くの言葉に同じような現象が働き、日本語全体が標準語の形成に向かって進んでいったのではないか。
在弥生时代,表示“山”的读音恐怕有许多,并非“やま”一种,而在“やま”成为汉字“山”的日本读音后,语言的标准化就得以成立了。不仅是山这个字,其它还有许多词语也发生了同样的现象,整个日语就在这个过程中形成了一种标准语。
だが弥生時代の日本人には、漢字をこなせる人々はまだ限られていただろうから、上のような作用が大々的に生じるのは、もっと後のことだったろうとも思われる。石川九楊は、飛鳥時代から奈良時代にかけてがその時期だったといっている。その時代の日本人が漢字を大がかりに吸収し、それを日本語の不可欠の部分として組み入れていったのではないかというわけである。
不过,对弥生时代的日本人而言,熟练掌握汉字的人还十分有限,因此上述现象的大量产生可能还是在更后的时代,石川九杨认为是飞鸟时代到奈良时代之间的时期。在这个时代,日本人对汉字进行了大规模引进,将其吸收进日语,使得汉字成为日语中不可缺少的一部分。
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