「とんでもございません」とは良く使われるいい方だ。かくいう筆者も使ったことがある。あることがらを強く否定するときに用いられる。たとえば「あなた、わたしを馬鹿にしてるんですか」と気色ばった相手に対して、「とんでもございません」という風に。
“とんでもございません”,是大家经常使用的表达,笔者也有使用的经历。它用于对某一件事情作出强烈的否定。比如,当对方怒气冲冲地说“你把我当傻子吗”时,你会回答“とんでもございません(绝无此意)”。
ところがこれは文法上間違った言い方なのだと、日本語のご意見番として知られる萩野貞樹氏はいう。「とんでもございません」は「とんでもない」という言葉を丁寧にいった形だと受け取られているが、それは語尾についている「ない」を、独立した品詞だと勘違いすることから起こる誤解で、「高くない」や「うれしくない」と「とんでもない」とをごちゃ混ぜにしているのだ、そういうのである。
然而,著名的日语专家萩野贞树却指出,这种用法在语法是错误的。人们把“とんでもございません”视为“とんでもない”的礼貌表达形式,而实际上,这是把接在词末的“ない”错看为一个独立的词,由此产生了误解,相当于把“高くない”、“うれしくない”和“とんでもない”混作一谈。
「とんでもない」は「あどけない」や「せわしない」などと同様、語尾に「ない」をつけた形容詞だ。一方形容詞の否定形として「高くない」とか「きれいじゃない」とかいう言い方がある。両者とも似ているようだが、文法上の用い方が違う。「あどけない」はそれ自体でひとつの言葉なのに対して、「高くない」は「高い」という言葉の否定形なのだ。
“とんでもない”与“あどけない”、“せわしない”同样,都是词尾接续“ない”的形容词。另一方面,“高くない”或“きれいじゃない”则属于形容词的否定形式。两者看起来相似,而在语法上却是不同的。“あどけない”这个词本身是一个独立的词,与此相对,“高くない”是“高い”的否定形。
このように「とんでもない」は、全体としてひとつの言葉なのである。だから「とんでもない」を、「とんでも」と「ない」に分解し、「ない」のかわりに「ございません」をつけて、「とんでもございません」と言い換えることは、言葉本来の姿から外れている。その証拠に「あどけございません」とか「せわしございません」とはいわないでしょう、というわけだ。
如上所述,“とんでもない”是一个独立的词。因此把“とんでもない”分解为“ とんでも”和“ない”,再将“ない”换成“ございません”,变成“とんでもございません”这种形式,并不符合词语原本的面貌。这就像我们不会说“あどけございません”或“せわしございません”一样。
それにもかかわらずこの言い方が頻繁に用いられ、一部の辞書までがそれを容認しているのはどうしたわけかと、氏は自問する。それは「悲しくございません」、「在庫がございません」などからの類推が働いていることのほかに、日本人には言い切りの部分をなんとか敬語で押さえたいとする心理が働くからだろうと、氏は思い至る。
尽管如此,这种表达却被频繁使用,甚至通行于一些词典。这又是为什么呢?萩野认为,除了从“悲しくございません(不难过)”、“在庫がございません(没货了)”等用法类推而来以外,日本人总希望在句末加上敬语的心理也是一大原因。
たとえば上の例に出てくる気色ばった人に対して「とんでもない」と答えれば、それは失礼を重ねることになるのではないか。言葉遣いがぞんざいだと受け取られるのではないか。そうした心理が働くために、「ない」を敬語の形にして、「とんでもございません」などと、変な日本語を使うようになったのではないか、そう氏は推理するのである。
就拿前例说吧,对一个怒气冲冲的人回答“とんでもない”,这不是火上加油吗?对方难道不会觉得你的语言很粗暴吗?萩野推测,正因为存在这样的心理,人们就把“ない”换成敬语的形式,使用起“とんでもございません”这类古怪的日语了。
氏はいう、形容詞だけは言い切りの形でも不自然ではない、もし言い切りですますのに抵抗があるのなら、ほかの言葉で補うのが上手なやり方だと。たとえば「とんでもない、そんなことはございません」という風に。
其实仅用形容词结句也并非不自然,如果觉得不带敬语结句显得很突兀的话,最好的方法就是添加其它的补充。比如这样说,“とんでもない、そんなことはございません(绝无此意)”。
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