時代の文化的環境
西行法師は、鳥羽天皇の元永元(1118)年、藤原秀郷の流れをくむ秀郷流の武門の家柄である佐藤氏の嫡子として生まれ、俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。父親は幼少の頃世を去りましたが、母は堅物源清経の娘で、説によれば『梁塵秘抄口伝集』『蹴鞠口伝集』に出てくる清経ではないか、とされており、そうだとすれば、清経の雅な血が流れていたということになります。
时期的文化环境
鸟羽天皇元永元年(1118),西行法师作为佐藤氏嫡子诞生,佐藤氏连续藤原秀乡一系血统,是秀乡流的武家名门,西行俗名即为佐藤义清。年幼时,父亲去世,母亲为坚物源清经之女,有说法认为,这个清经可能就是在《梁尘秘抄口传集》、《蹴鞠口传集》中出现的清经,此说若属实,那么西行也连续了清经风雅的血统。
佐藤家は私領であった紀伊国田仲庄を荘園として寄進し、自ら預所として財をなしていきます。佐藤家は徳大寺家と先の関係にあったため、義清は元服後の多感な時期を徳大寺家の家人として過ごしています。この徳大寺家は和歌の雰囲気を濃厚に持った一族で、若き日の義清に少なからぬ影響を与えました。一方で義清は当時风行のスポーツであった蹴鞠の名手であり、また西行が陸奥へ旅する途中鎌倉を通過するとき、頼朝に示した流鏑馬(やぶさめ)の射手としての見識は『吾妻鏡』で闻名です。芸術的な環境にあってその感受性から非凡な才覚をあらわし武勇にも秀でた、義清の魅力的な人物像が浮かんできます。
佐藤家将领地纪伊国田仲庄作为庄园捐赠给寺院,己方担任预所(日本庄园职务)积蓄家产。佐藤家和德大寺即是上述关系,因此义清在大德寺担任寺仆,度过了元服(男子成人仪式)后的多愁时期。德大寺家和歌氛围浓厚,这给了年轻的义清甚多影响。同时,义清也是当时的风行运动——蹴鞠的高手,另外,他在前往陆奥的旅途中经过镰仓时,向赖朝展示了骑射的技艺,此事因《吾妻镜》而流传甚广。因为从小生长在艺术环境里,养成对艺术的领悟力,由之既工于诗文,又兼具武勇,义清是个极富魅力的人物。
流鏑馬(平安末期、镰仓时期,武士风行的骑射运动,与笠悬、犬追物共称骑射三物)
義清は崇徳天皇の保延六(1140)年10月15日、23歳で出家しました。このことについて藤原頼長は日記『台記』(康治元?1142)に次のように記しています。 俗時自リ心ヲ仏道に入レ、家富ミ年若ク、心愁無キ、遂ニ以テ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ。
生のスタイルを変える出家は当時めずらしくないとしても、何不自由ない権力者の嫡子が若くして出家したことは、知る人ぞ知る突然の出来事であったようです。西行という法号は西方極楽浄土をねがう浄土信仰にもとづいて付けた号といわれます。学僧として世に立とうとしたのではなく、信仰と作歌とを身をもって体得し、紫衣をまとう形式よりも純粋な信仰心を求め、文学表現を深めようとする自己形成的な出家でした(窪田説)。
义清于崇德天皇保延六年(1140)10月15日出家,此时他23岁。关于此事,藤原赖长在日记《台记》(康治元年 1142)中记述道:俗时心自属佛道,家富年少,心无愁,遂以遁世,人誉之美。在那个时期,脱离原来的生活皈依佛门并不是罕见事,然而义清身为前程似锦的权门嫡子,年纪轻轻巧出家,想必也是有隐情的事。相传,西行法号的命名根源于希求西方极乐净土的净土信仰。根据窪田的说法,西行的出家目的是为自我完成,追求纯粹信仰更甚于成为佛门翘楚,他并不想作为学问僧立身,而只欲亲身领悟信仰与和歌,磨砺文学上的技艺。
歌の才覚
やがて西行は鳥羽院の警護役である北面の武士となります。この身分は六位と下級であり、23歳で出家したため五位にあがることはなく宮中資格を持ちませんでした。このことは27歳の時『詞花和歌集』の選にあたり選ばれた彼の歌
注:鸟羽院指鸟羽天皇(1103-1156),祖父白河法皇亡故后施行院政28年,死后发生保元之乱。
和歌上的才智
不久西行成为护卫鸟羽院的北面武士,阶位是六位下,因他23岁便出家,没能升上五位,未持宫中觐见天皇的资格(只有五位以上的官员才有资格在清凉殿觐见天皇,即殿上人)。关于这点,27岁时,《词花和歌集》中曾选用他的和歌:
身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
世人言弃身 安知其为真 唯有眷生人 诚有意绝尘
注:北面武士,创于白河上皇时,担任院御所护卫。
が、「読み人知らず」とされたことにつながっています。出家後、法皇の崩御により西行の宮中での力はさらに衰えますが、主家に徳大寺実能がいたことや、実能の妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の后であったなどのつながりから堀河局、兵衛局ら女房たちとの歌会に招かれるなど、歌や信仰によるつながりを続けました。もちろん西行の並外れた詩才がものを言ったことは言うまでもありません。西行没後の勅撰和歌集である『新古今和歌集』では最高の入集、94首を数えました。これは『新古今和歌集』の親裁後鳥羽院の賞揚、推挙が影響したとされ、『後鳥羽院御口伝』によれば 「おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず」 と賞賛しています。
此歌署名无名氏,和他未升至五位有关。出家后,因法皇驾崩,西行在宫中更处弱势,尽管如此,与和歌、信仰的联系并未被切断,因为他和鸟羽天皇的皇后、实能之妹待贤门院璋子有诗文来往,堀河局、兵卫局等女官们多邀请他参加歌会。当然,西行卓越的和歌才能也起了很大作用,这是无需多言的。在西行去世后编撰而成的敕撰和歌集《新古今和歌集》中,收录其和歌达94首,实为最多。这也得自《新古今和歌集》的总监督后鸟羽院的赞赏、推荐,据《后鸟羽院御口传》,后鸟羽院赞道:此非凡夫应学之歌。
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