織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らうは徳川。つわものたちが「天下盗りゲーム」に明け暮れた戦国時代、この三英傑、全員の厚い信義を得た「軍師」が、2014年大河ドラマの主人公・黒田官兵衛である。官兵衛の名にピンとこない方でも、秀吉に仕えた黒田孝高、あるいは黒田如水といえば、教科書の記憶がよみがえってくるかもしれない。
织田先舂米,羽柴揉出天下饼,德川坐吃饼。战国时期,武士们纷纷埋头于天下争夺游戏。而得到三大老由衷信赖的军师正是2014年大河剧的主角——黑田官兵卫。或许有读者听到官兵卫这个名字觉得陌生,不过如果说到辅佐丰臣秀吉的黑田孝高,或是黑田如水,大概就能忆起教科书上学到的知识了。
天才か?策略家か?
人生は毀誉褒貶(きよほうへん)。だが、楽天イーグルスの田中君さながら、黒田は全戦全勝、負け知らずだった。「いくさの天才」「文武両道の知将」「信義に厚いキリシタン」……官兵衛をたたえる「誉褒」は枚挙にいとまがない。一方、「狡知に長けた策略家」という「毀貶」の側面も、しばしば語られる。 いったい、どちらが官兵衛の実像なのか?それをつまびらかにするには、ただ一つのエピソードで特别かもしれない。
是天才?还是策士?
人生在世,难免毁誉褒贬。不过,就像乐天Eagles队的田中一样,黑田一生百战百胜,未尝过败退的滋味。作战天才、文武两道的智将、重信义的天主教徒……诸如此类对官兵卫的褒誉真实是数不胜数。而另一方面,机智狡诈的策士这类毁贬也经常为人谈起。那么,到底哪一种是官兵卫的真实面貌呢?要详细弄明白,只说一个小故事或许就充足了。
1582年、信長の命をうけた秀吉は、中国の毛利氏を討つべく、備中高松城(岡山県)に向かった。前代未聞の奇策「水攻め」で、落城寸前。そこに「信長横死」の一報が入った。明智光秀の裏切り、本能寺の変である。
1582年,秀吉受命信长,率军攻打中国的毛利氏,目标直指高松城(冈山县)。在一次空前的水攻奇策中,高松城被逼到了陷落的边缘。然而此时,却传来信长遇害的急报。明智光秀倒戈袭杀信长,史称本能寺之变。
茫然自失の秀吉。その耳元に官兵衛がささやいたと伝えられるのが、「これで天下が見えてきましたな」という一言である。秀吉は覚醒、毛利氏と和議を結び、光秀を倒すため猛スピードで京へ引き返す。この「中国大返し」に虚をつかれた光秀は、山崎の戦いで秀吉軍に大敗を喫し、勝龍寺城にたてこもった。
秀吉闻报大惊,茫然自失。相传,此时官兵卫凑近他耳边低声说了一句话:如此,天下指日可待。秀吉方如梦初醒,赶紧与毛利缔结了和约,转而攻打光秀,为此,他用极快的速度返回京都,史称中国大折返。光秀被攻了个出其不意,在山崎合战中大败于秀吉军,最后只得据守胜龙寺城。
あえて逃げ道を作って…
ここで秀吉が四方から兵を送り込めば、多少の犠牲が出たとしても、光秀の首をとれる。だが、官兵衛はあえて北側の道を開けるよう、秀吉に進言したのである。最短の時間、最小の被害で実を上げるためだ。思い通り、籠城の先が見えない光秀のしもべたちは、官兵衛が用意した逃げ道へとなだれを打った。待ち伏せた秀吉の兵が一網打尽にするのは、わけないことだった。
特意留出一条逃路
到了这个阶段,如果秀吉从四方调集兵士,集中攻城,纵然付出一些牺牲,夺取光秀性命也是不在话下的。然而,官兵卫另向秀吉献策,建议故意空出北侧的道路。这是为了用最短工夫和最小牺牲达成攻城目的。一切正如官兵卫所料,对据守失去信心的光秀余党们开始溃逃,纷纷涌向官兵卫准备好的逃生之路。结果,等候在那里的秀吉部队轻而易举地将他们一网打尽。
窮地に追い込んだ敵を追い詰めることなかれ――官兵衛は孫子の兵法「囲師必闕(いしひっけつ)」を実践したのである。官兵衛は「狡知」ではなく、「巧知」に秀でていたのだ。
所谓穷寇莫追,官兵卫实践了孙子兵法中的计谋——围师必阙。可见他并非是狡诈机智,而是擅长巧妙机智。
それでもまだ「官兵衛=策謀家」のイメージを払拭できない、という方も多いだろう。実際、官兵衛は秀吉から嫌疑の眼を向けられていた。「これで天下が見えてきましたな」という一言からも、悪辣な策士のゆがんだ唇が見えてきそうだ。
尽管如此,恐怕在很多人眼里,官兵卫=策士的印象还是不易消退的。实际上,秀吉也对官兵卫产生过怀疑。从如此天下指日可待的一句话,阴险策士扭曲的嘴唇也宛若在眼前。
だが、これは自軍の兵に向けた官兵衛の「計算」であった。部下たちの心中を見透かし、天下取りのうわさを流したのである。これを耳にした兵はがぜん奮い立った。光秀を討てば秀吉の天下になる、おれたちもその恩恵に浴せる、と。
不过,这也是官兵卫对己方兵士所施的计策。他洞察到部下们的内心,散布秀吉将要夺取天下的流言。兵士听到消息都振奋而起,心想着,只要讨伐了光秀就是秀吉的天下,我们也能分一杯羹。
官兵衛は「上司」秀吉の心の内だけでなく、「部下」一兵卒たちの心理を読むことにも長けていたのである。
可见官兵卫不仅了解上司秀吉的心理,还擅长读取部下兵士们的内心。
届かなかった?天下取り
かくして、こねた天下餅を食らえる座に就いた秀吉は、ある日側近たちに「わしの後、天下を取るのはだれかな?」とたずねたという。口々に五大老らの名を挙げる側近に向かい、秀吉が告げたのは、黒田官兵衛の名であった。
天下之梦终未完成
就这样,秀吉坐到了能吃揉好的天下饼的位置上,相传有一天他问起侧近们:我死后,谁能夺取天下?侧近们纷纷举出五大老的名字,而秀吉却告之以黑田官兵卫的名字。
官兵衛にもその野心はあったといわれる。だが、官兵衛が天下餅を食運」を引き寄せることはできなかったのだ。天下餅をつく信長を支え、こねる秀吉の名参謀となり、食らう家康からも一目置かれた黒田官兵衛。1604年、戦国の世の終焉を見届けた直後、59歳で生活を閉じた。
据说官兵卫也有这种野心,但最终并没能尝到天下饼。即使是这位被天下人秀吉畏惧的常胜军师,也无法让天命听从自己。帮助舂饼的信长,又成揉饼秀吉的闻名参谋,连吃饼的家康也谦让三分,这便是黑田官兵卫。1604年,他在看到了战国时期的结局后不久,离开人世,享年59岁。
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