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日本人也头疼?自由的日语书写方式

词汇语法  2015-04-29 16:402690

日本語は縦に書くこともできるし、横に書くこともできる。同じ内容を「である体」で書くこともできるし、「ですます体」で書くこともできる。TPOさえまちがわなければ、その選択は書き手の自由と良識にまかされる。

日语书写可纵可横。同样内容可写成“である体”,也可写成“ですます体”。只要时间地点场合没错,写法可任由书写人自由判断选择。

文字づかいやテンの打ちかたにいたっては、書き手のお好みしだいである。

至于文字选用和标点打法就更是因书写人喜好而定。

かな文字主義者が、「きのう おとなりさんから おいしい いちごを いただいたので こどもたちに たべさせました」と書くところ(分かち書きの方式は複数あるようですが)を、漢字好きの人なら、「昨日、お隣さんから美味しい苺を頂いたので、子供達に食べさせました」と書く。

假名文字主义者会写(词语间分隔开的写法有多种)“きのう おとなりさんから おいしい いちごを いただいたので こどもたちに たべさせました”,而喜好汉字的人则会写成“昨日、お隣さんから美味しい苺を頂いたので、子供達に食べさせました(昨天邻居家送了好吃的草莓,我给了孩子们吃)”。

むろん、この両極端の間に多くのバリエーションがあるし、人によっては「いちご」のところを「イチゴ」と書くかもしれない。

当然,在这两种极端之间有着诸多变种,不同人可能会有把“いちご”写成“イチゴ”的。

かくして、この短い文でも書きかたは十人十色になる。つまり、日本語の書き手は中身以前の段階で、すでに個性や創造性を発揮することができるのだ。英語や中国語やタイ語でオリジナリティを発揮したければ、中身や文体で勝負するしかない。

因此,这篇短文的写法也是各不相同。也就是说,日语书写人在内容之前的阶段,已经能发挥出个性和创造性。如果想用英语、汉语或泰语来发挥创造性,只能靠内容和文风来决胜败。

ただし、自由や多様性、というのはでたらめやいいかげんの別名でもある。

只不过,自由与多样性也是胡来和随性的别名。

そこで、書きことばは社会基盤のひとつであり公共財でもあるのだから、あまりにまちまちで野放図なのはいかがなものか、という考え方も当然ありうる。

因此,书面语言既是社会基干之一,也是公共财产,所以当然也有看法认为放任其出现这么千差万别的局面实在有问题。

梅棹忠夫さんなどはかねてから、日本語には正書法がない、世界の文明国で正書法がないのは日本語だけだ、と嘆いておられる。

梅棹忠夫等一些人很早以前就感叹日语没有正字法,说全世界文明国家里只有日语没有正字法。

たしかに、「取り締まり」か「取締り」か「取り締り」か「取締まり」か「取締」か、わたしたちも時々迷うことがある。「引越」についても同様だ。

确实,是“取り締まり”呢还是“取締り”呢还是“取り締り”呢还是“取締まり”呢还是“取締”,对此我们也常常迷惑。“引越”也类似。

この「取締」や「引越」のような例をYAHOOは「表記のゆれ」と呼んでいて、キーワード検索ではこうしたゆれにもちゃんと対応しています、と自慢している。

上述“取締”和“引越”等例子在雅虎被称为“书写的动摇”,并夸耀其关键词搜索对此也做了相应对策。

日本語の表記システムは、高い自由度と多様性をもつ融通無碍の表記である。同時に、でたらめでゆれ続ける不安定な表記でもある。

日语的书写系统是一种具有高度自由和多样性的融会贯通的书写方式。同时也是荒唐而持续动摇着的不稳定书写方式。

梅棹さんは、このような日本語の不完全な表記システムを正して正書法を確立しないかぎり、高度情報社会に対応できなくなると危機感を抱いておられるが、みなさんはどう思われるだろうか?

梅棹先生抱有一种危机感,称只要不确立正字法以纠正日语的此类不完整书写系统,就无法适应高度信息化社会。大家是怎么想的呢?

正直言って、私にはそこまでの危機感はない。大多数の人々もそうではないだろうか?だから、梅棹さんの主張にもかかわらず、日本語に正書法を確立すべし、という声は大きくならない。

说实话,我并没有这么严重的危机感。大多数人也没有吧?因此,即便梅棹先生如此主张,确立日语正字法的呼声也成不了气候。

たしかに上にも書いたように、でたらめいいかげんな日本語表記にわたしたちは困ることも多い。しかし、多くの場合、その迷いや困惑が深刻な悩みに発展することはない。心のどこかで、「わかればいいんじゃないの」という読み手の寛容な精神(これ、いつかも書きましたね)に期待しているのだ。

诚如上面所说,我们常困惑于荒唐而不知所谓的日语书写。不过,多数时候这些迷惘与困惑不会发展成严重的烦恼。因为我们在内心某处都期待着“能明白就好”这种来自看的人的宽容精神(这点以前也写过)。

書き手と読み手が共有する「甘え」と言ってもいい。その「甘え」の上に日本語の特異な表記システムは成立している。

这可说是写的人和看的人共有的“矫情”。日语的特殊书写系统就建立在这一“矫情”之上。

と言うよりも、日本語の読み手は、自由で幅のある表記、ゆれ続ける不安定な表記の中から書き手のメッセージを正しく読み取ることに「読み」の醍醐味を感じているのではないか。読み手の主体性をそこに発見しているのではないか。

话说回来,在这因书写的自由和宽泛而一直处于不稳定状态的书写体系中,看日语的人不正能通过准确读取笔者所传递的信息而体会到阅读的乐趣吗?这里不就能看到看的人的自主性吗?

前に、日本語ネイティブは漢字の面妖さとたわむれているところがある、というお話しをしましたね。それと似たような事情である。だから、もし正書法が確立して一義的に書き方が定まってしまったら、人々はきっと味気ない思いを抱くにちがいない。

我们之前说过以日语为母语的人开玩笑说汉字的奇怪之处。其实有与其类似的情况。因此,如果确立正字法规定统一的书写方式,人们无疑又会觉得枯燥无聊。

かな文字化やローマ字化が実現しないかぎり、日本語の表記はこれからもゆれ続けるだろう。そして人々は困った、困ったと言いながら、内心ではそのゆれを楽しんでいるのだ。

只要不实现纯假名或纯罗马字书写,日语的书写方式今后也会继续动摇吧。而人们嘴上说着麻烦、麻烦,其实内心是对其喜闻乐见的。

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