その頃私はその朽ちて墜ちさうな二階の窓から、向側に見える窓を眺めることがあつた。檜葉垣を隔てて、向に見える二階建洋館のアパートでは、私が見おろす窓のところに、白い顔をした男が鏡にむかつてネクタイを結んでゐる。そのありふれた映画のなかの一情况か何かのやうな姿が、とにかく、あそこには、あのやうな生活があるのだなといふことが分るのだつた。ところが、私の立つてゐる側の六畳の部屋は、そこではボロボロに汚れた畳が、その畳の感慨までが今では私をその部屋から追出さうとしてゐるのだつた。
その秋、私は土地会社の周旋で中野駅附近の汚ないアパートの一室を貸りたのだが、私から権利金を受取つた先住者は押入に荷物を残したまま身柄だけ一時立退いたかと思ふと、時折その部屋に現れてはそこを足場に担ぎ屋の商ひをつづけてゐた。そのうち先方の都合がどうしても立退けなくなつたと諒解と解約を申込んで来た。私は中野打越にある、甥の下宿先に再び舞戻つて来た。それから私は新聞社に「求間独身英語家庭教師に応ず」といふ広告を依頼してみたり、数少ない知人を廻り歩いて部屋のことを哀願してみた。「いつになつたら引越してくれる」と甥は時々不機嫌さうに訊ねる、そのたびに私は多少心あたりがあるやうな返事をしなければならなかつた。この若い学生の甥は殆ど毎日友人を連れて来ては部屋に寝そべつてゐた。
「あの時は舒畅だつたね、隣の家にはピカ(原子爆弾)で死にかかりの人間がゐるのに、こちらではみんな楽器を持寄つて大騒ぎやつた」
私は若い学生たちのだらけきつた雑談を部屋の片隅できかされた。みんな彼等は原子爆弾の際は中学の勤労隊にゐて市街から離れてゐたため無事だつたのだ。それは惨劇に直面し、その後突おとされた悲境のなかに生き喘いでゐる私とはひどく違ふ世界だつた。学校はもう休暇になつてゐたが甥たちはなかなか帰郷しさうになかつた。毎日、彼等は七輪で米を煮いてはガヤガヤと食事をしてゐた。食事の時刻には私は部屋を出て外食食堂に行つた。それから夜は壁際の片隅に身を縮めて寝た。私は何処かへ突抜けてゆきたいやうな心の疼きで一杯だつた。甥が帰郷すると始めて私はその部屋で久振りに解放されたやうな気持がした。が、ある朝、新聞記者が訪ねて来ると、
「唐突な質問で恐縮ですが世態調査で伺ひたいのです」と先日の求間広告で申込があつたかどうか訊ねた。私は[#底本はここで改行]「求間独身英語家庭教師に応ず」の広告が既に二週間前新聞に掲載されてゐたのもまだ知つてゐなかつた。
「さうですか、何分条件が特别なので申込があつたかと思ひましたが」と新聞記者は微笑しながら去つた。
藁をも掴まうとしてゐる自分の姿が寒々と私の目に見える。年が明ければ甥はここへ戻つて来るので、それまでにはどうしても立退かねばならなかつた。私は真空のなかに放り出されたやうな感覚で、年末の巷を歩き廻るのだつた。省線駅に出る露店にとりかこまれた路は絶え間なしに人の流れで犇めいてゐる。私はそこを歩いてゐると、あたりの人間がみんな私同様の戦災者の宿なしの群のやうにおもへたり、ふと周囲に動いてゐる人間はただ単に私の夢遊病の眼に映る幻覚ではないかと思へる。私は勤先の出版社や知人のところへ出向いて部屋のことを頼んでみるのだつたが、下宿の部屋へ戻つて来ると、今は誰もゐない部屋なのに緊迫した空気と追詰められてゐる自分が見えてくる。硝子戸だけで雨戸のない窓はガタガタと寒い風にふるへた。
(私が幼かつた頃には女中が足袋を温めてはかせてくれた。そんなにいたはられ大切にされながらも私はよく泣きたい気持にされた。火の気のない朝、氷雨ふる窓にふるへながら、いま私はあの子供をおもひだすのだ。)[#底本は「だすのだ)。」]
私は心のなかでこんな言葉を繰返してゐた。その言葉は私の胸だけを打つのかもしれなかつたが……。私にとつて、火の気のない冬は既に三度目だつた。
ある日、私は阿佐谷の友人を訪ねて行つた。Sは外出中だつたが間もなく帰つて来るといふので引とめられた。座敷に坐つてゐても、私は何かしーんとした空気を身につけてゐるやうな気持だつたが、話相手に出て来たSの細君が、ふと不安げにこんなことを語りだした。
「おそろしい病気もあるものですよ。Hさんの親戚の山宮さんといふ方が一週間前に亡くなられたのですが、はじめ中国から復員する船のなかで、ふと通路が分らなくなつたことがあるのです。上官にひどく頭部を撲られたことがあるので、多分その所為だらうと云はれてゐましたが、東京の家へ戻つて来てから、少しづつ意識が変になつて、癲癇のやうな徴候が生じるのです。しまひには御不浄に通ふことさえ本人の意志どほり行かなくなつたので、家族に持てあまされてゐました。癲癇なら外科手術で治療できるかもしれないといふので病院に入院さされてゐました。ところが入院して四五日目に亡くなつてしまつたのです。それで病院ではその人の頭を解剖してみました。すると脳のいたるところに小さな白い繭が出来てゐるのです。脳のなかに寄生虫が一杯ゐたわけなのです」
ふと私は自分の脳に何か暗い影が横切るやうな気持だつたが、恰度そこへSが帰つて来た。それで話はすぐ他の話題に移つて行つた。が、暫くすると、Sもやはり脳のなかにある白い繭のことから余程シヨツクをうけてゐるらしく、不安な顔つきで希奇な病気のことを云ひだした。それは私がSの細君から聞いた筋と同じだつたが、その病気がエヒモコツクスという寄生虫のためらしいこと、普通その寄生虫は警魚といふ中国の魚にゐて刺身などから感染すること、人体にとりつくと全身いたるところに切傷のやうな傷跡を発生するが、それが脳にまで侵入することは全く稀有のことらしい、とSは新しい註釈をつけ加へた。
「その山宮泉は昔、芥川龍之介論で『歯車』のことを書いていて、人間の脳の襞を無数の
「その山宮といふ人はもしかするとK大の文科を出た人ではないかしら」
「あ、学校はK大だつた……」
「あ、あの男かしら」と私はうなだれて考へ込んだ。
「へえ、知つてゐたのですか」とSは驚いた。
知つてゐたといふ程の間柄でもなかつた。昔その男と私は三度ばかり口をきいたことがある。そして一度私に葉書をくれたことがあつた。その葉書に山宮泉とあつたのが、その微かな記憶がふと私の脳に点火されたのだつた。私はその簡単な経緯をSに話した。
「へえ、それは珍しい。山宮にはK大の方の友人はなかつたやうだが、それでは明日はあなたも一つ都合ついたら告別式に出てやつてくれませんか」
山宮は学校を出て女学校へ勤務してゐるうち、Sたちのグループに加はり、太平洋戦争前まで尖鋭な文学論の筆をとつてゐた。学校を出ると私は東京を離れ殆ど孤立して暮してゐたので、こんなことを私がはつきり知るのも今がはじめてだつた。私は明日気がむいたら告別式に出席するかもしれないと約して、Sの家を辞した。
私の記憶にのこつてゐる面影では、ひどく神経質らしい相手だつたが、その男がその後生き難い時代をどのやうに生きてゐたのだらうか。一生に三度ばかり口をきいた男、脳に悲劇が発生して惨死した男……私は何かしーんとした底で茫然とするのだつた。
それは満州事変の始まる前の年の晩秋の午後のことだつた。K大学の合併授業で、私は自分の席から少し離れた前の席に着席した男の机の上に置いてある書物の表紙をちらりと見た。ローザ・ルクセンブルグ「経済学入門」その題名が私の注意を惹くと時々そつと私はその男を眺めだした。後から見る首筋や耳や髪の生え具合に何か烈しさうなものがあるのが私の眼に残つた。授業がすんで学生の群が坂をぞろぞろ降りて行くなかに、私は何気なくやはりその男を追ふやうにして歩いてゐた。電車通の舗道に出て、もう少し行くと道が曲つてしまふが、その男は私のすぐ前横にゐる。私はもつと彼の側に近寄つて行つた。
「ちよつとお話したいことがあるのですが」
私はたうとう相手に声をかけてゐた。相手はひどく喫驚したやうに立どまつた。私も自分が思ひ切つて声をかけたことに驚いてゐたが、
「さつき教室で見かけましたので」と云ひかかると、
「あなたはほんとにK大の学生ですか」と相手は警戒的に私をじろじろ眺めた。私はレインコートとハンチングの服装だつた。
「一寸ここでお茶でも飲みませんか」
私は目の前の喫茶店を指した。固い表情のまま相手はそれでも私について喫茶店に入つた。間もなく私は短刀直入にR・Sのことを話しだしてゐた。すると相手はすぐ私の言ふことを諒解したやうで、態度もすつかり平静になつてゐた。
「では廿五日の午後二時に飯田橋駅の入口のベンチで待つてゐますから」と私は約束して別れた。
約束の日に私は飯田橋駅のベンチで待つてゐた。私は未だかつて自分で見知らぬ人をR・Sに誘つたりするやうなことはしなかつた。約束の時間は来てゐたが相手の姿は見えなかつた。やはり来ないのかとベンチを立上らうとした時、あたふたと相手はやつて来て帽子をとつた。
「実は今日は大変なことがあつて失礼します。為替を道で落してしまつたので、これから友達のところへ行かねばなりません」
私は次の会合の日どりと私の下宿を教へて相手と別れた。だが、次の会合の時も相手の姿は現れなかつた。それから一週間もして私の下宿に葉書が舞込んだ。約束はしたが急に帰郷しなければならない用件が出来たので失礼したといふ断り状だつた。その葉書の片隅に山宮泉とあつた。私はそれで始めて相手の姓名を知つたのだつた。
私が彼と三度目に逢つたのは、その翌年の春だつた。どちらも殆ど学校に出てゐないらしく出逢ふ機会もなかつたが、ある日の合併授業の教室で相手は私を見つけると、ふと懐しげに近よつて来た。
「何度も失礼しました。一寸いろいろ都合つかない事情があつたので、漸くそれも片づきましたから……」
この次からR・Sの会へ出てもいいと云ふ顔つきだつた。しかし、私たちのR・Sはその頃既にバラバラになり自然消滅の形になつてゐたのだ。
私はその日の午後になるとやはり山宮泉の告別式に出かけて行く気になつてゐた。からりと晴れた寒い美しい日だつた。S学園前で電車を降りると、その辺は空気も澄んでゐて桜並木の路も私の眼に泌みるやうだつた。学園の運動場を横切つて、女学校の講堂へ来てみると、告別式は既に始まつてゐた。参列者の殆ど大部分が女学生で、祭壇の左右に遺族らしいものの姿やSの細君やSの友人のHやAの姿が見えた。祭壇にはたしかに山宮泉の写真が飾つてあるらしかつた。私はそれをやがて見ることができると思つた。その写真を眺めるために私はやつて来たのに違ひない。私はそつと後の列の脇にひとり離れて佇んでゐた。
先生らしい男がふと列を離れると、靴音をたてまいとして、谨慎な身振りで歩かうとしてゐた。その靴さきに集中されてゐる谨慎さが私の注意を惹くと、私は何となく「イン・イリツチの死」のこまかい描写を連想した。それから、人間の死の雰囲気のなかにゐる人間たちの姿を考へた。私は五年前死別れた妻の葬儀を夢のやうに思ひ出してゐるのだつた。その時、列の後の方で合唱隊の唱歌が始まつた。……悼詞が済んで焼香が始まると、やがて私の順番も廻つて来た。私は祭壇に近づくと正面に飾つてある写真を灼けつくやうに見上げた。が、それが私の知つてゐた彼かどうか、写真は茫として不明瞭な印象だつた。と、その瞬間、私は擦れ違ふ急行列車の窓のこちら側から向側の窓をちらつと眺めてゐるのではないかとおもへた。
二
ある日曜日の午後、私は夕方の外食時間にはまだ少し間があつたので、駿河台下から明大裏手にあたるひつそりとした坂路をひとりぶらぶら歩いてゐた。私が今まで生きのびて行けたのはまるで奇蹟ではないかとおもはれる。昨年の今頃は途方に暮れながら真空のなかを泳ぎ廻つてゐたのだが、たまたま私はある知人の厚意でその人が所有してゐる神田の事務所の一室へ押しつまつたその年の暮に入れてもらふことができた。それ以来、私はずつとここにゐる。生活が追ひつめられてゐることに於ては今とても変りはないのだが、生きて行くといふことは、私にとつて絶えず何ごとかに堪へ、何ごとかを祈りつづけることなのだらうか……私は歩きながらそんなことを考へてゐた。と、私の目にふれる壁の上の赤らんだ蔦の葉や枯れのこる葉鶏頭が幻か何かのやうにおもへて来た。しだいに私はひつそりとした空気のなかに、もう何も思はず何も考へたくなかつた。が、ふと、何かもの狂ほしい祈りのやうなものが私の胸に高く湧き上つて来た。
その翌々日、私は小村菊夫の死亡通知を受取つた。私が静かな、しかし、もの狂ほしい気持で歩いてゐた美しい日曜日の日に、彼は死んで行つたことになるのだつた。私はその母堂のわななく指で書かれたらしい葉書を見ると、凝としてゐられなくなつた。小村菊夫とはたつた一度しか逢つたことのない間柄だが、とにかく悔みに行つておきたかつた。
身支度をするとすぐ私は出掛けて行つた。地図で番地は凡そ調べてゐたが、中野駅で降りると、人に訊ね訊ねして、ぐるぐると小路を歩き廻つた。ひつそりとした小路の奥の突あたりの玄関に私はたどりついた。障子が開放たれ小さな座敷には七八人身内の人らしい正座の姿が見えた。今、私は告別式に間にあつて来てゐるのが分つた。が、座敷の一番端に坐つた時、それは私が今迄急いでせかせか歩いて来たためかもしれないが、急にパセチツクなものが湧上らうとした。牧師の静かな讃美歌が私を少し鎮めてくれるやうだつた。やがて私も祭壇の前に膝まづく番になつた。祭壇に飾つてある小村菊夫の写真を見上げると、茫とした白い顔は少し悲しげに微笑してゐるのではないかとおもへた。それから私は母堂に挨拶を述べるとすぐその家を辞した。中野駅の近くまで歩いて来ると、恰度、店頭のラジオがシヨパンらしい清冽なピアノを私の耳に投げかけて来た。
私は小村菊夫と生前たつた一度しか逢つてゐない。それも昨年私が神田の事務所の一室に移れる手筈になつて、引越の荷拵へをしてゐる年末の日だつた。部屋は品物でごつた返してゐたが、罹災以来転々として持運ばれてゐる僅かばかりの品物は、いい加減傷つき汚れてゐて、自分ながら悲惨に見えた。そこへ小村菊夫が訪ねて来たのだ。私は何か軽い狼狽を感じながら、窓の近くに坐をすすめると、彼は背広服のずぼんを端折つてそつと坐つた。その顔のなかには何か緊張と弱々しいものが混つてゐた。
「まだ熱が出たりするのですが、散歩がてらお訪ねしました」
かう云つて彼は持参の原稿を畳の上に置いた。前から私は彼の作品に惹きつけられてゐたので、私たちの同人雑誌に原稿を依頼してゐたのだつた。愛のほの温かさや死の澄んだ瞳を見つめて囁くやうに美しい彼の詩は私にとつて不思議な魅力だつた。私は彼の詩集が上梓されたら是非読んでみたいと思つてゐたので、そのことを話した。
「実は京都の書店から出るはずになつてゐたのですが……」と、彼の顔にいくぶん昂然とした暗さが横ぎつた。それから間もなく彼は坐を立つた。ほんの一寸私の部屋に挨拶がてら一休みしに来たやうな恰好だつたが、私も引きとめはしなかつた。
彼の作品は私たちの雑誌に掲載されだしたが、同人の間では評判が悪かつた。ことに学校を出たばかりの若い人たちは軽蔑と反撥を示した。
(信子はその暗い険の強い美しい横顔を厚志に向けながら「厚志さん、あれは一匹の蝶ではないのよ、二匹の蝶なのだわ……」とかう低く呟いた。厚志の心には、一瞬、羞恥にも似た秘やかな思ひが浮んだ。そして厚志は、その砂丘の上の明るい五月の空の下で、信子の甘い息づかひを、暗い眼ざしを、髪の毛の匂を次第に身近く燃える如く感じたのであつた。)[#底本は「あった)。」]
このやうな作風は兵隊靴の音やサイレンの唸りに、つい昨日まで攪乱されてひき裂かれてゐる心にとつては無縁の世界だつたのかもしれない。
ある日、雑誌の同人会が新宿のある書店の二階の一室で行はれてゐた。そこは何かざわざわして、窓の向に見える表通りには絶え間なしに通行人の姿が映画のやうに動いてゐた。ふと私には通行人の顔や、この部屋で行はれてゐる雑談や、毎月生産されるおびただしい文学作品が、すべては動いて止まぬ戦後の汎濫のやうにおもへて来るのだつた。その時、誰かが雑誌の批評をはじめてゐた。批評は小村菊夫の作品に触れ、軽く抹殺されるのだつた。その言葉は私の耳にはいつてゐた。だが、その言葉もやはり動いてやまぬ汎濫のなかに吸込まれてゆくやうだつた。会合がはねると、私は通行人の汎濫のなかをかきわけ、ひとり駅の方へ向つてゐた。すると、誰かが追ついて来て声をかけた。それは学校を出たばかりのEであつた。
「一緒に少しつきあつて下さい」と縁無眼鏡をかけた背の高い青年はギクシヤクするやうな身振りで私を誘つた。私たちは小さな屋台店に腰を下ろした。癇高い抑揚のある声でEは頻りに文学談をしかけるのだつたが、
「小村菊夫があんな風に取扱はれるとは情ないツことです」と烈しく抗議するやうに喋りだした。どこかEは戦争の疵と疼きがのこつてゐるやうな青年だつたが、私はそのEが小村菊夫の支持者であるばかりか、かなり親交のあることをはじめてこの時知つたのである。
その後、私はEを通じて時折、小村菊夫の消息をきかされるやうになつた。……小村菊夫は既に咽喉結核が昂進して病臥してゐること、彼の作品がある雑誌社に行つたまま抹殺されてゐること、そんなことをEはいつも悲憤に似た調子で話した。
そのうち病気は絶望的になり、彼はもはや永遠の睡りに入ることしか望んでゐないといふことも私は耳にした。それから間もなく、小村菊夫の死亡通知を受取つたのだつた。
彼が死んで十日目位にEが私のところに訪ねて来た。Eは告別式には間にあはなかつたのだが、小村家からその遺稿をあづかつて、私のところに持つて来たのだつた。その遺稿は近くある書肆から出版される手筈になつてゐた。その遺された原稿を読み、私はぼんやり考へ耽けるのであつた。
神様、私の死にます日が美しく清らかでありますやうに。
私の文学上のまた他の不安が、そして生活の皮肉が、
きつと私の額の大きな疲れを離れるでせう
この日が大きな平和のうちにありますやうに。
私が死を望むのは、それは全く身振りを作る者達の
やうにではありません、本当に全く素朴に、
人形のやうに、小さな子供のやうにです。……
これは小村菊夫が訳したフランシス・ジヤムの詩の一節だが、私は小村菊夫が死んだ日も、恐らく、美しく清らかな日であつたのだらうと思つてゐる。
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