彼らの文学的活動は、ブルジョア意識の総ての者を、マルキストたらしめんがための活動と、コンミニストをして、彼らの闘争と呼ばるべき闘争心を、より多く喚起せしめんがための活動とである。
私は此の文学的活動の善悪に関して云う前に、次の一事実を
――いかなるものと
此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニストと雖も、資本主義と云う社会を、敵にこそすれ、敵としたるがごとくしかく有力な社会機構だと云うことをも認めるであろう。
しかしながら、此の資本主義機構は、崩壊しつつあるや否や、と云うことは、最早やわれわれ文学に関心するものの問題ではない。
われわれの問題は、文学と云うものが、此の資本主義を壊滅さすべき武器となるべき
更に此の問題は、われわれの問題とするよりも、広く文学としての問題であると見る所に、われわれ共通の新らしい問題が生じて来るべき筈であろう。
われわれの討論は、今や一斉にここに向けられなければならぬ。
コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。
しかしながら、文学に対して、最も深き認識に達したものは、コンミニストたらざるを得なくなるであろうか。
もしも、文学に対して、最も深き認識に達したものが、コンミニストたらざるを得なくなるとすれば、コンミニストの中で、文学に関心しているものは、最も認識貧弱な人物にちがいない。何故なら、文学などと云うものは、コンミニストにとっては、左様に深き認識者の重要物ではないからだ。
もし、彼らにして文学を認めるとすれば、文学に対して最も深き認識者は、コンミニストたらざるを得なくなると云う認識も否定すべきであろう。
かくして、文学に対して最も認識深き者と雖も、コンミニストたらざる場合があるとすれば、この「場合」こそ、われわれ共通の問題となるべき素質を持った存在にちがいない。此の存在とは何であろうか。
われわれは、いかなる者と雖も、資本主義の機構の上にある以上、資本主義を、その正邪にかかわらず、認めなければならぬ。またわれわれは、いかなるものと雖も、マルキシズムを、その正邪にかかわらず、存在する以上は認めなければならぬ。何故なら、此の二つの対立は、歴史の重大な歴史的事実であるからだ。
しかしながら、此の二つの敵対した客体の運動に対して、いずれに組するべきかその意志さえも動かす必要なくして、存在理由を主張し得られる素質を持つものが、此の社会に二つある。一つは科学で、一つは文学だ。
もしもコンミニストが、此の文学の、
総ての文学がコンミニズムになりたる場合を考えよ。最早やそのときに於ては、文学はその科学のごとき有力なる特質を紛失する。しかしながら、もしもコンミニストが、文学を認めたとしたならば、文学の
もしもコンミニストが、此の文学の持つ科学のごとき特質を認めねばならぬとしたならば、彼らにして左様に認めねばならぬ理由のもとに於てさえ、なお
文学がしかく科学のごとき素質を持ち、かくのごとく生き生きと存在理由を持つ以上、われわれは再び現下に於ける文学について、考えねばならぬ。しかも、それは、文学に於けるいかなる分野が、素質が、属性が、
「われわれには、そんな暇はない。」と云うものは云うであろう。しかし、文学はそんなものからさえも、彼らもまたかかる科学的な一個の物体として、文学的素材となり得ると見る。此の恐るべき文学の包括力が、マルクスをさえも一個の単なる素材となすのみならず、宇宙の
しかしながら、その次に何物よりも、われわれの最もより多く共通した問題となるべきことがあるべき筈だ。それは、われわれ人間が世界を見る場合、唯心論的に見るべきか、唯物論的に見るべきかと云う二つの見方にちがいない。此処でわれわれの完全に共通した問題は分裂する。
われわれは前に、その正邪に
もしわれわれが、歴史を認めたならば、資本主義を認めた如く、社会主義をも認めなければならぬ。もしわれわれがそうして社会主義を認めたならば、社会主義をかくも歴史の新しい事実として勢力付けた唯物論をも、認めなければならぬであろう。
しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社会主義を認めたごとく、左様に唯心論を認め、唯物論を認めることは出来ないのだ。何故なら、われわれは最早やここに至ると、文学を論じているのではなくして、
そこでわれわれは、唯心論を撰ぶべきか、唯物論を撰ぶべきかと云うことによって、われわれの世界の見方も変って来る。
もしわれわれが、唯心唯物のいずれかを撰ぶことによって、世界の見方が変るとすれば、われわれの文学的活動に於ける、此の二つの変った見方のいずれが、より新しき文学作品を作るであろうか。
それは少くとも唯物論もしくは唯物論的立場である。何ぜなら、唯心論及び唯心論的文学は、最早や完全に現れて
もしわれわれが、此の新しき唯物論的文学を、より新しき文学として認めるとすれば、われわれは当然、コンミニズム文学をも認めねばならぬ。何故なら、コンミニズム文学は、此の唯物論を基礎とした文学であるからだ。
しかしながら、コンミニズム文学のみが、ひとり唯物論的文学では決してない。それなら、他にいかなる唯物論的文学が存在するか。それは、新感覚派文学、これ以外には、一つもなかった。
もし新しき文学が、コンミニズム文学と新感覚派文学の二つであるとするならば、そのいずれが、果して文学の圏内に於て、より新しくして
われわれは考えねばならぬ。もしもコンミニズム文学が、
それで果して文学的活動は正当さを主張し得るのであろうか。もしそれで正当となすものがあるならば、コンミニズム文学は、文学の圏内に於ては、最早やいかなる発展能力をも持ち得ないと云わなければならぬ。
われわれの文学は、文学形式として、発展能力を持たない限り、一大文学とはなり得ない。われわれは今は文学を問題としているのだ。社会を問題としているのではない。
われわれが社会を問題とせずして、文学を問題としているとき、最早やわれわれには、コンミニズム文学は、問題から
しかしながら、次に起るべき新しき文学は、新感覚派の中から発生した社会主義文学のみではない。何故なら、われわれの社会機構は、いまだ資本主義の一大勢力のもとにあるからだ。いかにわれわれが、拒否しようとも、資本主義の存在していることは事実である。此の資本主義の存在している限り、それは
しかし、もしそうして資本主義文学が新しく発生したとしても、彼らは唯物論的な観察精神をもった新感覚派文学でなくしては、無力である。
かくのごとく新感覚派文学は、いかなる文学の圏内からも、もし彼らが文学を問題としている限り、共通の問題とせらるべき、一つの
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